「持たない生活」と「ゼイタク」の両立 オーガニックのバスタオルを目いっぱい

光の加減がずいぶんと変わってきました。
冬と春の間を行きつ戻りつ、まあまあ、もう寒くはならないかな、といったところでしょうか。
我が家のアナログ式お手洗いにおいても、ひやっとはしますがピャッと飛び上がるほどじゃあなくなりました。
歩み寄る春、感じてらっしゃいますか。
春は捨てたくなる季節
スッキリしてますか。
ゼイタクしてますか。
一見すると真逆のこの二つ。
同時に叶えるなら、オーガニックコットンのタオルがおすすめだ、というお話です。
朝が早くなり、夜は遅くなり、陽のあたる時間が長くなりました。
家の中が明るい時間も当然増えるというもの。
そしたら、これまで気にしていなかったアレやコレやソレが急に目に付く、捨てたくなる、というお話をときどき伺います。
寒いし、億劫だし、別に困らないし……と積み上げていたソレ。
いつか処分しよう、そのうち捨てようと思っていたアレやコレ。
見て見ぬ振りを決め込んでいたあたりが文字通り明るみに出たようで、気になられるのだと。
そうですか、と相槌を打ちながら、頭の片隅にはこんな疑問が浮かびます。
本当に散らかってる?
と申しますのもですね、家電の小型化が進み、文化の情報化が進んだ昨今です。
おうちの中でモノが占めるスペースは、あんがい減っているのではないでしょうか。
アレやコレやソレ。
見過ごしてしまっても、毎日の暮らしのスペースは保てる程度らしいのです。
ひと昔、ふた昔の家は、もっともっとものが多かったように思います。
たとえば、盆暮れ正月に訪ねた、田舎の祖父母の家。
五人家族の家なのに、食器棚には揃いの皿や小鉢が十ばかり。
床に積まれた缶詰、観音開きの冷蔵庫。床下には乾物の貯蔵庫、戸棚にはみかんりんごバナナや干しイモの袋、贈答品の菓子折り、エトセトラ・エトセトラ……
物量に圧倒された記憶はいまだ鮮明です。
今よりも地域の交流が盛んで、呼んだり、呼ばれたりが当たり前だった、というのもきっとあるのでしょう。
「昔のおうち」には、食料品を中心として、ものすごくたくさんのモノがあった気がします。
「あのころ」と「このごろ」を見比べて、さてどうでしょう。
持たない生活
「持たない暮らし」というフレーズが一般名詞になったなあ、と感じています。
アレはいらない、コレもなくていい。
家の中に物が少ない状態は、今や「地味」や「貧乏」という文脈ではなく、憧れをはらんだものとして受け止められています。
もはやライフスタイルの一つといっても差し支えないでしょう。
「断・捨・離」が2010年の流行語大賞に選ばれてからはや9年。
冷蔵庫も掃除機も小さくなり、自宅にパソコンを持たない方も増えている、と聞きます。
都心部にお住いのお若い方には、車どころか、免許自体も持っていない方が、そう珍しくはありません。
本も音楽もどんどん電子化されていますので、コレクションによって床が抜ける心配もずいぶん減りました。
安心です。
で、数年前からチラチラと耳にするのがですね。
「バスタオルを使わない」というお声。
フェイスタオルで代用をされると教えていただきました。
なんと。
お客様、いけません。
ここはもう、文字を太くして主張しておきたいところです。
いえいえ、もちろん、天衣無縫のフェイスタオルが力不足だと言いたいわけじゃあありません。
天衣無縫のタオルは吸水性・保水性・乾きやすさに肌触り、どれをとっても最高です。
ですので、もちろん十分です。
フェイスタオル1枚で、お風呂上がりに全身拭けちゃいます。
でもでも、あえて申し上げたいのです。
まだ肌寒いこのごろ、お風呂でしっかり温まった後は、バスタオルにくるまりたくなりませんか?
清潔なタオルがたっぷり詰まったリネンラック、良い眺めじゃあありませんか?
スッキリ、シンプル、が流行の昨今ですけれども。
「たっぷり」とか「ゼイタク」。
たまには恋しくなりませんか。
清貧と充分と満足と贅沢
たとえば、世界三大宗教のいずれにおいても「清く、貧しいこと」は美徳とされていました。
持たないことは、美しい。
この感覚は、古くから我々の心に強く根付いております。
核家族や一人の世帯が増え、また技術も発展した昨今では、実現もたやすくなりました。
我が家には、壁掛け時計がありません。
テレビがありません。
掃除機がありません。
電子レンジがありません。
なくても平気、というモノはあんがい多くて、ないならないなりに過ごせてしまうものだなあとつくづく考えます。
モノ自体が少ないので、見通しもすっきりとしております。
不満はありません。
ところが、どういうわけか。
このごろ、小さいころに読んだおとぎ話を思い出すのです。
むかしむかし、から始まるおとぎ話。
王子様とお姫様が結ばれ、エンディングは華やかなパーティー。
食べきれないほどのごちそうに豪華なドレス。
どこか、田舎の台所に通じるものがあるように思います。
むかしむかし、物量として豊かさであることと幸せは、イコールだったのでしょう。
一人で暮らすようになって、家の中のモノはとっても減りました。
「無駄」は、好きではありません。
何よりもったいないし、アレやらコレやらがやたらと目に入るのは気になるものです。
せっかく買ったのに食べないで駄目にしたり、使わないで肥やしにするなんて、悲しい。
極力無駄がないように、余計なものを置かないようにと暮らしを作ってきて、ずいぶん経ちました。
いつも迷ったら小さい方、少ない方を選んできました。
そういう暮らし自体は気に入っていたはずなのです。
なのに、どうしてか。
このところ、妙に「ゼイタク」や「たっぷり」が頭の片隅をよぎります。
たっぷりに挑戦
それがなつかしさなのか。
あこがれなのか。
ちょっとよくわからないけれど、なんだか気になる「たっぷり」や「ゼイタク」。
気になってしょうがない。
「じゃあやってみるか」と思い立ちました。
と、腰を上げたものの、ですね。
早々に途方に暮れることになりました。
そもそも、手が止まるのです。
これは使うかな、こんなに食べるかな、要るかな、どうかな…
持たない生活に慣れ切った頭では、もはや気軽にモノに手を伸ばすのが難しくなっていたようです。
さりとて気になる「たっぷり」や「ゼイタク」。
どうしたものかと長風呂をしながら悩みました。
いい加減ゆだっても結論が出ず、ふらふらしながらお風呂を出て、「あ」。
毎日、最後まで
タオルは、誰もが、毎日、何度も使います。
年代も性別も問わず、朝から晩まで、トイレでも台所でもお風呂でも、必ずタオルのお世話になります。
昔の人が浴衣をほどき、手ぬぐいを作り、裂いて下駄の鼻緒にしていたように、タオルも古くなったらぞうきんにして使い切ることができます。
そうかそうか、これならたっぷりあっても絶対に使うぞ。
最後まで、無駄なく使い切れるぞ。
安心して、ゼイタクができるぞ。
ようやく踏ん切りがついたのでした。
今、我が家のランドリーラックには、スラブガーゼのバスタオルが7枚入っています。
色はすべてオフホワイト。
スラブ糸独特のぽこぽこした風合いに、ガーゼのとろみ、パイルのふうわりした柔らかさ。
乾きも早いし、使いやすい。
もちろん100%オーガニックコットン仕様の認証付きです。
いまさら、というくらい天衣無縫のタオルの中では定番中の定番ですが、長く愛されるには訳があるのだな、と改めて実感します。
持たずに、少ない持ち物で生活してきた身としては、たっぷりに手を出すのは勇気がいるものでした。
一人暮らしの家に7枚のバスタオルは、けっこうなボリューム加減。
お風呂には毎日入り、そのたびに新しいタオルを使っても、振り返れば次のタオルが、充実した顔つきでふっくらと収まっています。
ランドリーラックを眺めるたび、ちょっとにやにやしてしまう安心感。
ささやかですが、ゼイタクです。
うん。
いいもんですよ。
現場からは以上です。